菅原道真と「憂しが鼻」——別れの浜に残る想いと言霊
■ 憂しが鼻とは何か?
香川県高松市香西西町。ここに、小さな岬のように突き出した「憂しが鼻(うしがはな)」と呼ばれる場所があります。現在は松林と小さな碑が立つ静かな場所ですが、平安時代、この地を訪れた一人の偉人によって、その名と伝説が刻まれました。
その人物とは、学問の神として全国で親しまれる「菅原道真(すがわらのみちざね)」公です。
道真は、平安時代の貴族であり、詩人、学者、そして政治家でもありました。彼は59歳のとき、政争により都から讃岐(現在の香川県)に流され、「讃岐守(さぬきのかみ)」としてこの地に赴任します。
そして、任期を終えて都へ戻る途中、この香西の地に立ち寄ったとされており、そこで詠んだ和歌が地名の由来になったと伝わっているのです。
■ 歌に託した想い:香西で詠まれた一首
「讃岐には 憂しと思へど とどまらむ 都をいでし ことを思へば」
— 菅原道真『拾遺和歌集』
この和歌は、「讃岐にいるのはつらいが、都を離れてきたことを思うと、ここに留まりたいとも思う」といった意味に訳されます。
表面的には左遷先での生活を憂いているようにも見えますが、実は道真の心中には、都での栄華が去り、地方に追いやられた悲哀、そしてそんな中でも自らの運命を受け入れようとする覚悟が読み取れるとも言われています。
香西の浜に立ち、都への道を見送ったこの場所で、道真は自らの人生と向き合っていたのかもしれません。
■ 「憂し」と「鼻」の意味をひもとく
「憂し」は古語で“つらい”“悲しい”を意味します。
「鼻」は「岬」や「突端」を意味する地形語。
つまり、「憂しが鼻」は「悲しみの岬」とも呼べる場所なのです。
この地名は一説によると、道真がこの地で別れの悲しみに涙し、その感情がそのまま土地の名前として残ったとも言われています。
古くから日本には、「名は体を表す」という言葉がある通り、地名に人々の感情や出来事を残す文化があります。この「憂しが鼻」はまさにその代表例ともいえるでしょう。
■ 地元に残る足跡:句碑と案内板
現在の憂しが鼻には、道真を偲んで建てられた句碑があり、地元の人々の手によって手入れがされています。近くには「香西憂しが鼻公園」として整備された小さな広場があり、地域の子どもたちが訪れる学びの場でもあります。
また、この句碑は戦後に再建されたもので、地元の郷土史研究者たちによって長年語り継がれてきました。
春には海風に揺れる松の音が心地よく、訪れる人の心を癒します。
■ 歴史が息づく町・香西と憂しが鼻
香西は、古くは勝賀山を中心とした城下町、さらに讃留霊王(さるれいおう)の伝説や白峯遍路道など、歴史と信仰が交差する土地です。
その中でも「憂しが鼻」は、文学と心の記憶が色濃く残る場所です。
道真はその後、九州の太宰府に左遷され、現地で没することとなります。しかし、彼が生涯を通して詠んだ多くの歌の中に、この香西の地での心情が静かに刻まれていることは、地元民にとっても誇りといえるでしょう。
■ 旅人・地域住民へのメッセージ
「憂しが鼻」は、単なる観光名所ではなく、1000年以上の時を超えて語り継がれる“別れ”と“再出発”の地です。
大切な何かを手放したとき、新しい場所へと踏み出すとき——そんな節目に訪れるには、まさにふさわしいスポットかもしれません。
地元に住む私たちもまた、日々の営みの中で迷いや想いを抱えながら、この地の風と歴史にそっと背中を押されているのです。
🏞️ご案内メモ
- 所在地:香川県高松市香西西町(憂しが鼻公園内)
- アクセス:JR香西駅から徒歩約15分
- 見どころ:菅原道真の句碑、松林、瀬戸内海を望む絶景