香西氏の興亡 〜瀬戸の要衝に咲いた一族の栄光と落日〜
■ はじめに 〜「香西」とは誰か
香川県高松市・香西町。
穏やかな瀬戸内の海と勝賀山のふもとに広がるこの地には、かつて戦国の荒波を越えて生きた一族が存在していた。
その名は「香西氏(こうざいし)」。
地名に名を残す一族は数あれど、「町名=一族名」という例は稀である。
香西町は、まさにこの一族がこの地を支配し、育て、そして託した名前そのものなのだ。
この最終章では、香西氏の起こりから滅亡までをたどりながら、忘れられかけた中世讃岐の主役たちに、もう一度光を当てたい。
第一章:起源と興隆 ― 勝賀山に築かれた一族の礎
香西氏の系譜は、平安時代末期に遡る。
一説には、讃留霊王(さるれいおう)の末裔であり、古代の香川地方を支配した“王の血”を引くとも伝えられる。
鎌倉時代以降、香西氏は勝賀山(かつがさん)山頂に香西城を築き、海と山の要衝を押さえる地元武士団として勢力を拡大。
瀬戸内航路を見下ろす立地は、まさに“陸海の要”であり、海運を通じて財力と影響力を高めていった。
中世には香川県中西部に多数の所領を持ち、「香川郡五大名」のひとつとしてその名を轟かせる。
第二章:三好氏との連携 ― 戦国を生き抜いた地方豪族の知略
室町時代、讃岐国は細川氏の支配下にあった。
しかし次第に覇権は動き、16世紀半ば、細川氏の被官である「三好長慶(みよし ながよし)」が急速に勢力を拡大する。
香西氏は、この三好氏にいち早く接近し、讃岐の“海軍勢力”として積極的に協力。
特に香西氏の当主・香西元春(こうざい もとはる)は、瀬戸内海の航行と水軍の運用に長け、三好軍の重要な“水陸連携の要”として活躍した。
また、香西氏は京・堺との交易にも強く、軍事力だけでなく経済力でも三好政権を支えたと言われている。
第三章:香西元春という男 〜信長と時代のはざまで〜
香西元春。香西氏中興の祖にして、戦国末期の香西家最後の当主。
彼は若くして三好家に仕え、三好長慶の死後も三好三人衆と共に畿内の戦乱に身を投じる。
しかし永禄の政変以降、三好政権が弱体化すると、香西元春は新たな権力者・織田信長と接触する。
元春は信長の軍門に下り、武功を挙げることになる。
特に有名なのは、1573年(天正元年)の将軍足利義昭との対立に際し、香西元春が安土城建設の初期に協力したという記録。
さらに、阿波・淡路方面の調略にも奔走し、讃岐出身ながらも畿内政局の“動く参謀”として活躍した。
だが、その後の四国政策を巡り、元春の運命は大きく変わる。
第四章:四国攻めと香西氏の滅亡
1585年、豊臣秀吉の四国征伐が始まる。
長宗我部元親が抗戦するなか、香西氏は板ばさみに遭う。
信長亡き後、元春の後ろ盾は失われ、旧主・三好家もほぼ崩壊。
この混乱の中で、香西元春は讃岐に戻ることなく、淡路で討死したとも、自刃したとも伝えられている。
その詳細は定かではないが、彼の死によって香西氏は事実上断絶となった。
香西城は秀吉軍によって破却され、勝賀山の砦も静かにその役目を終える。
第五章:功績と記憶 〜一族が残したもの
香西氏の歴史は、数ある戦国大名のなかでも「地方に根ざした自立した豪族」として特異な存在だ。
国衆としては珍しく、海運・交易に強く、戦だけでなく経済で繁栄を築いた一族だった。
城、港、寺院、郷校…その痕跡は香西の地に今も残り、町の名に刻まれている。
終章:語り継ぐ香西の英雄譚
「香西」という地名が、ただの住所ではなく、一族の記憶そのものであると気づいたとき、
この町の風景が少し違って見えるかもしれない。
勝賀山の風、香西湾のさざ波、地蔵や祠の向こうに――
かつてこの地を守り、戦い、祈り、生き抜いた人々の足音が、今も聞こえてくる。
📍参考地・現地情報まとめ
- 香西城跡(勝賀山):登山道あり、石碑と解説板あり
- 香西氏供養塔・旧墓地:香西本町墓地付近(地元要案内)
- 関連史跡:香西寺、金勢八幡、法力不動尊、香西郷校跡